2012年7月20日金曜日

五重塔の心柱とスカイツリーの制振システム


五重塔の心柱による免震機能が東京スカイツリーの制振システムにも応用されたということは、広く知られているところである。
五重塔の相輪を支える心柱は塔本体と構造上分離されており、最上層の小屋組頂部の井桁で囲われているだけである。
したがって、地震や風による揺れに対して心柱は、塔の中でゆらゆら揺れているという状態になるのである。
この異なる揺れが結果として免震性に作用していると解釈されている。
一方スカイツリーは、鉄骨造の塔部分と避難階段の機能をもつRC造コアが構造的に互いに独立しており、部分的に互いをダンパーで繋ぐことにより、周期の異なる揺れが塔全体の揺れを減免するという設計になっている。
まさに五重塔の心柱からヒントを得た設計といわれる所以である。

日光東照宮ではスカイツリーのオープンに合わせて、五重塔の初層内部を公開しており、心柱を見ることができる。
東照宮五重塔の心柱は、塔の四層部分から鎖で吊り下げられており、心礎から浮いた状態にある。五重塔として非常に珍しい心柱の構造である。
塔身が縮むことを考慮し、更に最上層屋根の相輪根本部分の防水を確保するという非常に高度な設計である。
五重塔建設の歴史上後期に当たる江戸時代に建てられたことが、心柱の目的性を明確にし、工法を進化させたと言えるであろう。

日光東照宮の五重塔
「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤編 より

五重塔を心柱に着目して、幾つか例に挙げ考えてみよう。
まず、歴史的に古い五重塔から検証しよう。
法隆寺五重塔の心柱は、基壇から地中2.5メートルに心礎がある掘立柱式である。
飛鳥・白鳳時代の塔には掘立柱式の心柱が多いが、法起寺三重塔など基壇上部に心礎を据えているものもある。
早くから掘立柱式と地上独立柱式とが混在していたものと考えられている。
心柱の多くが三本継ぎで、塔本体の組み上げ工程に合わせて継がれていったものである。


平安時代以降の三重塔では、心礎を据えず、心柱を初層天井裏の梁に立てている。
鎌倉時代になると、海住山寺のように五重塔にも初層天井裏の梁に心柱を立てる例が出始める。
以降江戸時代まで、二種類の心柱の工法が混在している。


塔はもともと釈迦の墓として伝来したものであり、塔の内部には釈迦にまつわる像が安置された。
心柱は釈迦如来を表すとされる一方、密教では大日如来を、あるいは薬師如来を表すとも解釈されるようになった。
初層に心柱がなくなると内部空間が広くなり本尊を真ん中に安置するなど、より宗教的意味合いでの利点が増すことになる。

岩船寺の三重塔
岩船寺三重塔の内部

五重塔・三重塔共に、塔本体は圧縮によるつぶれや乾燥収縮などにより塔全体の髙さが徐々に低くなる。
一方で心礎に立つ心柱はほんど縮まらず、相輪の位置は変わらない。
よって相輪最下部の露盤と最上層屋根との間に隙間が生じ、雨漏れの原因となる。
そこで、熨斗瓦や銅版で隙間を塞ぐか心柱を切り詰めて相輪を下げるなどの補修を行ってきた。
三重塔ではほとんどなくなった心礎に据える心柱構造が五重塔では半数以上に採用されてきたことは、大架構体に対する保守的な発想に起因したものであろうか。


「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤編 より

時代が進み江戸時代になると、日光東照宮五重塔のように懸垂式の心柱が新たな工法として現れる。
照宮五重塔の心柱は、前述の通り、四重の梁部分から四本の鎖で吊り下げられており、心礎から浮いた状態であり、先端の長い枘が心礎に掘られた枘穴の中で振れ止めとなっている。
心柱を塔本体から吊ることにより心柱および相輪も塔の縮み具合に合わせて下がるため、最上層屋根と相輪下部の露盤との間に隙間が生じることはない。
懸垂式心柱の工法は、谷中の感應寺五重塔にも採用さえているが、同時代の多くの塔で採用された訳ではなく、当時の技術伝達が容易でなかたことにも関係するであろう。

五重塔・三重塔が建てられた1000年を超す歴史の中で、心柱が工法の変遷はあるものの免震装置としての機能を担っているとの理解は明確であった。
耐震・免震の常識では軽さの要素が重要度の上位とされるが、木造の塔では積み重ね方式の構造故、上層部荷重とバランスをとるため庇に敢えて重い瓦を乗せざるを得ない。
そこで免震の切り札となるのが心柱という訳である。

長きにわたる日本古来の伝統技術である五重塔心柱理論をヒントにスカイツリーは設計されたのである。


参考文献:「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤 編
         NHK美の壺「五重塔」

(阿部 泰資)

2012年6月5日火曜日

昭和の近代建築


201262日に、フォーラム「わが国の近代建築の保存と再生」に参加してきた。

今回のテーマは、第4回「昭和の近代建築」ということで、最初に東京大学名誉教授の鈴木博之先生の「わが国の近代建築:大正から昭和へ」の講演があった。
引き続き竹中工務店の加部佳治氏と中嶋徹氏の「明治生命館の保存と再生」と題した講演では、三菱2号館を解体し明治生命館を建設した当時の映像で始まり、改修工事におけるディテールなど興味深い説明であった。 
このフォーラムは、武庫川女子大学 東京センターの主催のもと、日本建築学会、日本建築家協会、日本建築士会連合会その他の後援があり、日本工業倶楽部会館の2階大ホールで開催され、参加者は200名を超す盛況であった。
今回の参加希望者が500名超えであったそうで、次回の抽選結果が心配となるところである。


講演会終了後、竹中工務店のお二人に案内していただき改修となった明治生命館の見学会となった。
土日は一般公開もしているそうであるが、当日は閉館後ということで私たちのみでゆっくり見学できる機会に恵まれた。

昭和9年竣工の明治生命館の設計は、意匠が岡田信一郎氏、構造が内藤多仲氏であり、基本的には新耐震に対応できる建築であったことが、デザイン上好ましくない補強工事が不要で「保存と再生」にとって大きな事である。
建築工事費における人件費の割合が今日的状況でない時代であったからこそできた石工の素晴らしい仕事ぶりが随所に見て取れ、空間構成や部屋のデザイン、照明器具から家具まで時間を忘れて見惚れる程の見学会であった。

明治生命館はご承知の通り、立地の良さに加え建築のデザイン性や施工技術の確かさなどから、戦後GHQの目に留まり、接収されてアメリカ空軍司令部として使われた歴史がある。
現在でも2階の応接室は国賓がお見えになった祭、天皇陛下との接見に際してのお休み処として使用されるとのことである。
歴史的価値が髙く評価される建造物の再生として面目躍如たるところであろう。

次に、見学会のスナップを掲載する。









(阿部 泰資)

2012年5月11日金曜日

最近の大規模複合商業施設

我が足元とも言える代官山と渋谷に新しい複合商業施設が相次いでオープンした。

老舗の百貨店がこぞって苦戦を強いられている今日において、大変な賑わいをみせている代官山のT-SITEと渋谷のヒカリエに集客の魅力を探ってみよう。

T-SITEは蔦谷書店を核とし、平面配置の複数店舗からなる複合商業施設だ。

今や市中の書店の多くが撤退し続けている中、本と映像や音楽を軸にカフェやバーを含む文化の発信元として新たな集客を目論んでいる。

買うことのみを目的とする商業施設では最早多くの集客は望めない。客に対してもてなしを提供する場というコンセプトに、ネットにも対抗し得る選択の幅を提供しようとする店を目指しているという。

それにしても大変な混雑ぶりである。







渋谷のヒカリエは半端ない混雑である。
オープン直後のゴールデンウイーク中は入場制限をする程の人出であった。

渋谷駅からのアプローチは、2階のデッキと地下3階の地下鉄コンコースである。
2階デッキを渡ると、電光案内版と大吹抜け空間により明確に所在地を確認できる。



20台から40台の女性が主なターゲットなのだそうだが、店舗部分で特筆すべきひとつにお惣菜とお弁当の地下3階フロアがある。
外食という言葉に対して家での食事を内食と言い、店で求めてきたお惣菜やお弁当を家で食べる食事のことを中食というそうだ。
特に仕事を持つ若い女性たちの食事は、お惣菜店の発展に支えられているといえよう。デパチカで養われたテイクオフのお惣菜やお弁当を扱う老舗が軒を並べている。
仕事帰りに買い求め、帰路となる各路線直結のコンコースへという動線が魅力であろう。

東急グループでは複雑化したターミナルの動線再構築の第一歩として位置付けしているとのことである。
さらに、地下鉄の廃熱が生む恒常的上昇気流を利用した自然換気が負荷軽減に大きく寄与しているそうである。




ミュージカル劇場「東急シアターオーブ」へは、専用エレベータで11階のエントランスフロアを経由してエスカレータで下るという動線になっている。
オープニングのイベントは「市川亀次郎 大博覧会」であったが、たまたま当日は貸切公演であったため入場することができなかった。



大々的な省エネ効果を掲げた施設であるという観点も含め、少々落ち着いた時期に再度訪れようと思っており、ブログにも後日談を掲載しようと考えている。

(阿部 泰資)




2012年4月9日月曜日

桜とスカイツリー


桜の季節である。この時期の日本人としては何よりも桜である。

ニュースも天気予報もまずは桜の情報からだ。
そこで、今回のブログは少々趣を変えたものにしようと思う。

4月8日は穏やかな晴天の日曜日であり、隅田公園は大変な人出であった。
去年は自粛ムードであったため、今年は通年以上の盛り上がりなのか。
更に今年オープンするスカイツリー人気が加わって、歩くものままならない程の混雑である。




日本人にとっての桜は単に花を愛でる対象のみでなく、その短命と散り際の見事さから日本人の生き様を重ねた対象としているとも言えるであろう。

そういえばかつて、日本通を自認するドイツ人建築家の友人に「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の意味するところを伝えられなかったことを思い出す。
当然私の拙い英語力にもよるのだが、今日の風や明日の雨などにより散ってしまうのではないかとの心配を「ましかば~まし」などと厄介な文法をもって表現する心は日本人以外には伝わらないものかと痛感した次第である。

それにしても、あの美しさや明るさは人々を魅了して止まない。
本居宣長の「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山さくら花」や、
西行の「願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」など大変に親しまれていることからも判るというものであろう。


桜とともに人々のお目当てはスカイツリーであった。
特にこの時期のみの桜とスカイツリーがフレームに収まる写真は決定的目的のひとつである。


スカイツリーが五重塔の芯柱と同様の独立芯柱(他の構造部から独立し建っている)構造を採用していることは良く知られている。

しかし、非常に小さい建築面積の塔であることはあまり知られていないようである。
細長い敷地であり、底辺を広げられなかった条件のもとで634mの髙さの塔を設計することを可能にしたのは、鋼材の品質や溶接技術の向上に加え構造解析技術の進歩によるものである。

電波塔である以上、上部の形状は円または少なくとも多角形とする必要がある。
底辺を正三角形とし徐々に円形化する構造が、見る位置によりいわゆる「反り」や「ムクり」の日本伝統的ライン感じさせる効果を生んでいる。

夜間照明の状態を未だ見ていないのだが、オリジナルに開発されたLEDを使った戸恒浩人氏のライティングが、更なる日本的なるものを強調して見せてくれるようになるのか期待である。


(阿部 泰資)









2012年3月22日木曜日

横浜三塔

横浜関内地区にいわゆる横浜三塔を見て廻った。

キング、クイーン、ジャックとの愛称で親しまれた三つの塔は、それぞれ神奈川県庁本庁舎、横浜税関、横浜開港記念会館である。


キング
クイーン
ジャック














■ 神奈川県庁本庁舎=キング

現在の神奈川県庁本庁舎は、江戸時代から運上所という役所があった場所で、先代の施設が関東大震災によって焼失した後に復興事業のシンボルとして昭和3年に建設されたものである。

コンペティションで東京市の技士であった小尾嘉郎氏の案が選ばれ、いわゆる帝冠様式の庁舎として後の地方官庁施設に大きな影響を与えて行くことになる。

5階建ての建物に更に4層になる矩形の塔屋が乗っており、宝形の銅版屋根を冠した重厚な塔がキングと称されることになる。

周辺は概ね官庁施設の街区であり、新庁舎など高層のビルも多くなった現在でも十分な外部空間が確保されているためどの方向からも塔を見ることができる。



■ 横浜税関=クイーン

横浜税関も同様に、関東大震災で倒壊した先代に代わり昭和9年に建設されたもので、港の復興を優先させたために竣工まで年数を要したと言われている。

設計は大蔵省営繕管財局技士の吉武東里であり、いかにも税関の施設らしく港側に面を取って正面とし、その真上に大桟橋埠頭を見下ろすように塔が配されている。

塔頂に緑青色のイスラム風ドームを持つ塔はクイーンと称され、港に出入りする世界中の船乗りたちにも愛されてきたという。

港に近い立地条件と共に、その機能上の意味合いにより港からの景観に配慮する政策がとられてきており、現在港側のほとんどの地点から見ることができる。



■ 横浜開港記念会館=ジャック

横浜開港記念会館は、横浜開港50周年に向け地元の資産家たちを中心として広く市民に資金を募り、設計コンペで当選した東京市技士の福田重義案を基に横浜市技士の山田七五郎の実施設計により大正6年の竣工となった。

横浜三塔の中でも最も古く関東大震災を経験しており、震災で内部は焼失したが昭和2年に修復された。

この地には元々貿易商たちが建てた町会所があり、当時の時計台が引き継がれ4面に時計を配した塔がジャックと呼ばれ市民に親しまれている。

内部には大きなホールがあり、今日も市民サークルによるピアノ演奏会やピースボートの説明会が開催されていた。

周りに高い建物が多くなり、横浜三塔の中でもジャックのみその姿を確認できる場所が非常に少なくなってしまった。




■ 横浜三塔

現在三つの塔が同時に見られる場所は限られたものになり、且つ海上からの横浜を決定的に印象づけるロケーションであった海側からのジャックは探し当てねばならない程に塔頂部が微かに見える有様である。

大桟橋屋上からの写真であるが、左手の褐色タイル張り矩形の塔がキングであり、右手の緑青銅版のドーム屋根の塔がクイーン、遠方の鉄塔の右側に小さな帽子のように塔頂部が見えるのがジャックである。




私は1971129日 大桟橋埠頭からナホトカに向けた船上の人となった。

その際、強烈な記憶として残っているのが三つの塔の姿である。
外国旅行がまだポピュラーでなかった時代であるが、国際港としての横浜の顔は明確なシンボルによって確認されることを痛感したものである。

一方、夜半に到着したナホトカの港では複数の軍艦のシルエットに迎えられ、鉄砲を持つ軍人の列が待つ桟橋し誘導された。国の玄関たる港のイメージが入国する国に対して如何に多大な心理的影響をもたらすものであるか身をもって感じたものである。

今やジャックの影を追うことかなわずとも、キングとクイーンが入出国時における船上から横浜の、日本のイメージを形成し得るロケーションであり続けられるよう保存してゆくべきものであろう。


参考文献
 朝日新聞横浜支局編 残照-神奈川の近代建築 有隣堂
 横浜洋館散歩 淡交社
 広報よこはま 横浜三塔

(阿部 泰資)