2016年8月24日水曜日

桐生新町の街並

 
今年の夏季休暇は、早めの予定を組まなかったので、群馬と栃木という近場で過ごした。
群馬は母の故郷であり、栃木は私の出身地である。
群馬県桐生市にはかつて母の実家があり、私は小学生のころ姉と二人で毎年夏休みの1ヶ月を叔父の家で過ごしていた。西の西陣・東の桐生と言われた織物の街として栄え、当時は幡屋(織物工場)も多く、道端を流れる細い水路が常に色々な色に染まっていたことを覚えている。
工場が激減したとはいえ、織物の街を前面に特色のある街として活性化を図ろうとしている。観光客向けに織物会館での展示をはじめ、現存する織物工場での工場見学や織物体験など街を挙げての「まちおこし」に取り組んでいることが見える。
 

 

今回、私の主な目的は「桐生新町」と称されていた古い町並みを訪ねることにあった。現在の町名で本町一丁目、二丁目の本町通りに面している部分が保存地区とされている。
保存地区の入口には、味噌屋として栄えた「有鄰館」があり、蔵も見学者に開放されている。
  

     

江戸時代初期から、北端の天神様を基点に、道幅5間の通りの両側に短冊状の敷地を配し、近隣からの入植者を募集するといった当時としては珍しい計画的な街づくりであったとのことである。通りと敷地が微妙に矩手とズレており、家々のファサードが互いに醸し出すリズムが心地よい。このリズムは、我が田舎の栃木市にも見られる現象で、古い街並で時々体験するものである。
  
   
  

本町通りを北上すると、北の端で天神様に突き当たる。
          

タクシーの運転手さんには「桐生新町」が通じなかった。本町道りの北の方と言って乗車したら、有鄰館のあたりですかと聞き返された。近隣の村が合併して桐生町となった頃の地名だそうで、若い人には「桐生新町」は通じないのかも知れない。
保存地域に指定し、特定街区として環境保全に取り組んでいる合言葉として「桐生新町」という名称が広く知られれるようになってほしいものである。
(阿部泰資)

2016年5月26日木曜日

ル・コルビュジエの17作品が世界遺産へ



ル・コルビュジエの作品群を世界遺産にしようとの活動がスタートして、紆余曲折の末、今回の推薦書提出を受けて20167月発表時に世界遺産として認定される見通しである。

先週の講演会「わが国の近代建築の保存と再生」第15回「世界遺産の観点からみたわが国の近代建築」において、元文化庁の役人でイコモス会員・日本ユネスコ委員会委員長代理として日本の世界遺産申請に関しスイスやオランダで活躍されてきた稲葉信子氏(現筑波大学大学院教授)の講演を拝聴してきた。氏は法隆寺や姫路城などの申請時から世界遺産登録に関わって来られたのだが、講演会の趣旨に従い、近代建築が世界遺産に登録され始めた経緯から、ル・コルビュジエの作品群の扱いに苦慮してきたことなどが中心の話であった。

世界遺産に近代建築を「近代建築・近代遺産」として登録しようとの機運は早くからあった訳ではなく、最初の登録が1984の「アントニオ・ガウディの作品群」である。その後、ブラジリア、バウハウス、リートフェルトのシュレーテル邸、ヴィクトール・オルタの邸宅群、ミース・ファン・デル・ローエのトゥーゲントハット邸などが続き、シドニー・オペラハウスに至る。当然のこととして、ル・コルビュジエの作品群をどう扱うか、世界遺産における近代建築の評価基準をどうすべきかが大きな問題となってくる。少なくとも建築家の存命中は無理であるとか(シドニー・オペラハウスはヨルン:ウッツオンが存命であったため審議延期になった経緯がある)、建設後最低25年は経過していることなどとの興味深い話を聞くことができた。

世界遺産候補として「ル・コルビュジェの作品 6か国22資産」が最初に申請された2008の時点では、ユネスコの諮問機関であるICOMOSは「記載延期」と勧告した。続いて2011に「6か国19資産」として情報照会した際にICOMOSは「不記載」(世界遺産の価値なし)の勧告を出した。しかし、世界遺産委員会は、1段階戻し「審議延期」として、世界遺産登録の可能性を残した。

現在の推薦内容は下記の通り、チャンディガールを含み、7か国17資産となっている。

フランス:ジャンヌレ邸、ペサックの集合住宅、サボワ邸、
     ナンセジュール・エ・コリ通りのアパート、マルセイユのユニテ、サン・ディエの工場、
     ロンシャンの礼拝堂、カップ・マルタンの小屋、ラ・トゥーレット修道院、
     フィルミニの文化と青少年の家
スイス: レマン湖畔の小さな家、イムーブル・クラルテスイス
ドイツ: ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
ベルギー:ギエット邸
アルゼンチン:クルチェット邸
インド:チャンデガールのキャピトル・コンプレックス
日本: 国立西洋美術館


上野の国立西洋美術館

今年は、フランク・ロイド・ライトの審査も行われる予定だそうである。
今後、日本から推薦する近代建築はどのような概念で選定すべきであろうか?
例えば、丹下健三さんの代々木のオリンピック競技施設などと単純に言えるものではなさそうである。

近代遺産の登録に向けて最初からリードしてきたオランダの経緯を考慮すると、リートフェルトのシュレーテル邸の早期登録は理解し易いものの、メキシコのルイス・バラガン邸と仕事場の登録に至っては、どうしてコルビュジェの作品が落選を繰り返すのか理解に苦しむと言えよう。
それぞれの申請内容や選定理由などをみても、コルビュジェの作品をイメージして読んでも違和感がないようなものであるらしい。つまり、今後選定基準をより明確にして行く作業が重要になり、世界中の多くが納得できる基準を期待したいものである。

かつて、1994年の世界遺産委員会の専門家会議で、それまでの遺産リストがヨーロッパの文化、キリスト教、選ばれた者の遺産などに偏っていたことを反省し、「文化の多様性への尊敬を込めて、より広い人類学的見地から、世界遺産の枠組みの充実と世界遺産リストの信頼性確保のための努力を行う」と高らかに宣言したことがある。
今や、世界遺産(自然遺産を含む)の選定基準に真っ向から非難する方々は少数派と言えるのかも知れないが、近代遺産についてはこれからということであろう。建築に携わる我々としては、近代遺産リストにおける近代建築の推移に注目して行く必要があろう。建築が社会にどのような影響を与え、どのように評価されて来たかを、世界中の一般認識として再確認する機会となるであろう。
 

参考文献:稲葉信子氏の配布資料、文化庁「世界遺産と無形文化遺産」


私は、最近の約1ヶ月間で、4回も美術展に行ってきた。
1.村上隆の五百羅漢展
2.村上隆のスーパーフラット・コレクション
3.レオナルド・ダ・ビンチ展
4.若冲展

更に、西洋美術館の「カラバッチョ展」にも行こうと思うのであるが、今回の世界遺産のニュースで長蛇の列との噂なので、当面、時期を見計かろうと考えている。

(阿部泰資)

2016年3月26日土曜日

会津と東山温泉

温泉好きメンバーでの「葉桜の会温泉旅行2016年春」は会津・東山温泉である。春恒例のイベント・彼岸獅子の1週間前であり、会津は静かであった。温泉宿は中庭が自慢の「向瀧」と定めている。中庭の名物「雪灯篭」の季節は過ぎてしまっているが、中庭に面した部屋からの雪つりした庭木と雁行した建物の眺めは、かなりの趣がある。
江戸時代の中期からという歴史的宿の風情はそれなりであったと言えるが、最近我々が好んで訪れている名旅館から想定していた造作への高い期待に対して、少し物足りなさもあった。温泉好きにとって露天風呂がないのは残念だが、歴史を誇る温泉旅館にはありがちなことである。

会津には、個人的に足を運ぶことも多く、最近の3年間で4回目となる。学校での歴史教育において薩長側からの幕末・明治維新を強制された悔しさから、幕末を会津側から見直すことに嵌まっているのである。正義は薩長にではなく、会津にあったと確信しており、錦の御旗の疑わしさに至っては何をか言わんやである。

時の薩長軍に、会津をここまで追い詰め、更に降伏の後の藩士たちに過酷な処遇を強いる理由や権利がどこにあったというのであろうか。私には、日本人の歴史における大きな汚点とさえ思える。一方で個人的に、中野竹子、神保雪子、西郷千重子と一族21人など壮絶な死をとげた婦女子たちの心根にこそ日本人のアイデンティテイを見るのである。

初日には西郷千重子の夫=城代家老・西郷頼母の邸宅を復元した「会津武家屋敷」を見学した。個人的には藩校である「日新館」よりも、西郷千重子の辞世の句「なよ竹の...」に見る所謂「会津婦道」を、我が温泉旅行のメンバーに再認識してもらいたいことで選んだルートである。

平屋で280坪あるとのこと。幕末期には実質40万石あったと言われる大藩に見合う家老の屋敷と言えるのであろう。

 翌日は、例によっての酒蔵見学である。今回、「末広酒蔵」さんでは丁寧な説明付での見学をさせていただいた。そして試飲させていただき、大吟醸を求めて帰るいつもの手順となる。
 
小雨に降られたものの、近距離を歩いて七日町通りに移動し、「満田屋」で田楽の昼食を取った。街中には古い建物を丁寧に保存しながらのお店が多いのであるが、この店は3~4ピッチで丸太の桁が組まれている。大スパンの構造として、昔の土蔵などに見受けられる工法であったろうか。中に1本だけの管柱は、2階にどのような重荷重があるのか興味を沸かせてくれる。
炉端焼きの味噌田楽がコースで提供され、野菜類や身欠鰊などが次々運ばれて、最後に餅ときりたんぽのようなものが出る。なるほど1食分の膳となっている。それにしても、我々呑兵衛ばかりのメンバーが文句も言わず味噌田楽を食す姿にも驚きがあった。

(阿部泰資)