2012年3月22日木曜日

横浜三塔

横浜関内地区にいわゆる横浜三塔を見て廻った。

キング、クイーン、ジャックとの愛称で親しまれた三つの塔は、それぞれ神奈川県庁本庁舎、横浜税関、横浜開港記念会館である。


キング
クイーン
ジャック














■ 神奈川県庁本庁舎=キング

現在の神奈川県庁本庁舎は、江戸時代から運上所という役所があった場所で、先代の施設が関東大震災によって焼失した後に復興事業のシンボルとして昭和3年に建設されたものである。

コンペティションで東京市の技士であった小尾嘉郎氏の案が選ばれ、いわゆる帝冠様式の庁舎として後の地方官庁施設に大きな影響を与えて行くことになる。

5階建ての建物に更に4層になる矩形の塔屋が乗っており、宝形の銅版屋根を冠した重厚な塔がキングと称されることになる。

周辺は概ね官庁施設の街区であり、新庁舎など高層のビルも多くなった現在でも十分な外部空間が確保されているためどの方向からも塔を見ることができる。



■ 横浜税関=クイーン

横浜税関も同様に、関東大震災で倒壊した先代に代わり昭和9年に建設されたもので、港の復興を優先させたために竣工まで年数を要したと言われている。

設計は大蔵省営繕管財局技士の吉武東里であり、いかにも税関の施設らしく港側に面を取って正面とし、その真上に大桟橋埠頭を見下ろすように塔が配されている。

塔頂に緑青色のイスラム風ドームを持つ塔はクイーンと称され、港に出入りする世界中の船乗りたちにも愛されてきたという。

港に近い立地条件と共に、その機能上の意味合いにより港からの景観に配慮する政策がとられてきており、現在港側のほとんどの地点から見ることができる。



■ 横浜開港記念会館=ジャック

横浜開港記念会館は、横浜開港50周年に向け地元の資産家たちを中心として広く市民に資金を募り、設計コンペで当選した東京市技士の福田重義案を基に横浜市技士の山田七五郎の実施設計により大正6年の竣工となった。

横浜三塔の中でも最も古く関東大震災を経験しており、震災で内部は焼失したが昭和2年に修復された。

この地には元々貿易商たちが建てた町会所があり、当時の時計台が引き継がれ4面に時計を配した塔がジャックと呼ばれ市民に親しまれている。

内部には大きなホールがあり、今日も市民サークルによるピアノ演奏会やピースボートの説明会が開催されていた。

周りに高い建物が多くなり、横浜三塔の中でもジャックのみその姿を確認できる場所が非常に少なくなってしまった。




■ 横浜三塔

現在三つの塔が同時に見られる場所は限られたものになり、且つ海上からの横浜を決定的に印象づけるロケーションであった海側からのジャックは探し当てねばならない程に塔頂部が微かに見える有様である。

大桟橋屋上からの写真であるが、左手の褐色タイル張り矩形の塔がキングであり、右手の緑青銅版のドーム屋根の塔がクイーン、遠方の鉄塔の右側に小さな帽子のように塔頂部が見えるのがジャックである。




私は1971129日 大桟橋埠頭からナホトカに向けた船上の人となった。

その際、強烈な記憶として残っているのが三つの塔の姿である。
外国旅行がまだポピュラーでなかった時代であるが、国際港としての横浜の顔は明確なシンボルによって確認されることを痛感したものである。

一方、夜半に到着したナホトカの港では複数の軍艦のシルエットに迎えられ、鉄砲を持つ軍人の列が待つ桟橋し誘導された。国の玄関たる港のイメージが入国する国に対して如何に多大な心理的影響をもたらすものであるか身をもって感じたものである。

今やジャックの影を追うことかなわずとも、キングとクイーンが入出国時における船上から横浜の、日本のイメージを形成し得るロケーションであり続けられるよう保存してゆくべきものであろう。


参考文献
 朝日新聞横浜支局編 残照-神奈川の近代建築 有隣堂
 横浜洋館散歩 淡交社
 広報よこはま 横浜三塔

(阿部 泰資)





2012年3月5日月曜日

富岡製糸工場


朝日新聞の2月28日付夕刊に「ニッポン宝さがし」シリーズで「工女が開いた近代化」として富岡製糸工場が掲載されていた。

実は、大学時代の親しい友人たちと毎年2回ほど温泉旅行を楽しんでいるのだが、最近では、目的の温泉場の近くにある興味深い建築を訪ねることも計画に含むようにしている。

昨年末の旅行の際訪れた諏訪の片倉館は、数回前のブログに書いた通り「あゝ野麦峠」の舞台で有名な製糸工場である。
当時女工たちの保養施設として造られた素晴らしい「千人風呂」という温泉施設は、現在も日帰り入浴を可能にしていることでご存じの方も多いであろう。
ブログ「上諏訪の片倉館」は >> こちら

同じ製糸工場だが群馬の富岡製糸工場は、2010年夏の温泉旅行の会で見学している。少し古い体験ではあるのだが、この度の新聞記事に触発されて富岡製糸工場について記してみよう。




富岡製糸工場は明治5年創業だ。

「あゝ野麦峠」のような暗い女工哀史とは全く異なる女工さんたちであったという話は新聞記事に譲るとして、建築様式・工法について述べてみよう。

設計および監理は、フランス人建築家ポール・ブリュナーによるものであり、特に工場本体の構造は木骨煉瓦造と言われる工法で、主体構造としての木造に煉瓦積による面耐震の壁面で構成されている。

木軸は西欧様式のトラス構造であり、工場としての大空間を確保させている。
木骨煉瓦造という工法は非常に稀ではあるが大変に興味深いものである。
煉瓦や瓦は県内に作った窯で焼成し、木材は中之条の奥にある官林から切り出し、煉瓦の目地には下仁田産の石灰を用いたという。

つまり、フランスから輸入した窓用の板ガラス以外は近場で入手できる工法を考え出している訳である。



ちなみに、富岡製糸工場は官営の工場としてスタートし、明治中頃には三井に払い下げられ、更に昭和13年からは前述の片倉館のオーナーである片倉工業の富岡工場として運営されることになる。

この数年来、富岡製糸工場を世界遺産に申請しよういう動きがあるが、その願望の成就は別としても観光資源として維持管理に力を注いでいることは非常に良いことであろう。

追記:2011年12月のブログで、「上諏訪の片倉館」について記述した。
    >>「上諏訪の片倉館」のブログはこちら
諏訪の片倉工業は、富岡製糸工場と共に、明治初期の輸出絹産業を支えた2大生産拠点である。
女工史として、その時代特有の悲哀が今日まで語り継がれているが、絹産業が明治期の飛躍的発展に寄与したことは疑うべきもない。


(阿部 泰資)